衝撃的だった修養会

中学一年生の私にとって、衝撃的だった学校行事があります。

それは、修養会というものでした。

一週間、外部からの牧師さんのお話を聴いて、それについてクラスの中で、話し合うと言う行事だったのです。

もちろんその行事も、礼拝から始まります。

一番印象に残ったのは、牧師さんが、障害をお持ちの施設の理事長さんでもあり、障害があろうとも健常であろうとも、人間としては何ら変わりはない、神が創りたもうた愛そのものなのだというお話でした。

 

そして、私の心を強くとらえたのは、聖書の言葉でした。

「自分が、してほしいと思う事を、隣人にいしなさい」

当たり前と言えばそこまでなのですが、ギスギスしたやられたらやり返すような小学校時代を過ごして、やり返す事もせずに悲しい気持ちに、なっていた私にとっては、相手がしてほしいと思う事を、自らすると言う積極的な行動を説く聖書の言葉は、本当に救いそのものだったのです。

聖書の言葉は、現代を生き抜くには、絵空事綺麗事で、本当は奪いあいの世界だと、おっしゃる方もいらっしゃると思います。

実際に高校を卒業してからの私は、大学の先輩やアルバイト先の人から、そのような事を言われた事もあります。状況としては、私が、何も言ってないのですが、相手が突然、「この世を生き抜いてゆくには、一つしかない物があったら、相手より先に自分が、奪わないとならない時もある。あなたは、それがわかっていないだけ、子供だ。」

「お祈りだけで、生きてのか?それで良いのか?」

と、突然相手が、私に話し始めたので、「一体、今何が、起こっているのだろう?私は、自分からは、何も相手に強制したり、強要してない状況で、どうして、それを私が、聴くのだろう?」と、ちぐはぐな会話とシチュエーションに呆然として、呆気にとられてしまったことが、何度かありました。

なんとなく私を見ていて、物申したい気持ちになり、その人は、自分の考えを思わず言ったのだろうと、思います。その人には、その考えがあるのだと受け止めて、しかし、頭が真っ白になり、今、何が起こっているのか?反射的に理解が、出来ずにその場で黙っているしかなかった私が、います。

少なくとも私自身は、当時、お祈りさえしていれば、生きて行けますとか、人に与える事こそ、意味があります。などの言葉は、自分から言う事はなく、自分の目標に向かって学び、楽しく学生生活を過ごしていただけなのですが、誤解をされたのかもしれません。

又は、私が、人に押し付けるような事は、何も言わなくても、その人達は、何か言いたい事があり、率直に私に自分の思いを話しただけなのだと思います。

しかし、やはり現実生活をおくるには、聖書の言葉は、難解な所もあります。

例えば

「何を着ようか、何を食べようか、思い煩うな、野の花を見よ。」と言う言葉で、本当に、何を着ようか、何を食べようか、思い煩わなくても生きてゆけるのだろうか?と、自分に問いかけるようになったのは、家庭を持ち、自分の生活だけではなく、子供を育てるようになった時でした。

しかし、今、私は、そこに疑問を持つことはなくなりました。

1930年代から始まった全世界の依存症からの回復の12のステップの中には、奇跡のコースのイエスからの言葉が用いられているからです。

これは私達にとって、やはり恩寵なのだと思います。

 

 

 

 

 

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